2023年8月14日

ニコンのレンズを世界に知らしめたデイヴィッド・ダグラス・ダンカンの功績

Inside the Cone of Fire
Inside the Cone of Fire, Con Thien, Vietnam, 1967
David Douglas Duncan

デイヴィッド・ダグラス・ダンカンは戦争の峻烈な写真で高く評価され、パブロ・ピカソの最も有名な写真も撮影したアメリカの写真家である。ミズーリ州カンザスシティで1916年1月23日に生まれた。幼少期からアウトドアに興味を持ち、比較的若くしてボーイスカウトのイーグルスカウトの称号を得た。カンザスシティにあるダンカンの小学校で、大物ハンターであり医師でもあったリチャード・ライトバーン・サットンがランタン・スライドを使ったプレゼンテーションを行ったことがきっかけで、写真と世界旅行に早くから興味を持つようになった。アリゾナ大学に短期在籍し考古学を学んだ。ツーソン滞在中、彼はホテルに入ろうとする銀行強盗のジョン・デリンジャーをうっかり撮影してしまった。結局、ダンカンはマイアミ大学で教育を受け続け、動物学とスペイン語を専攻して1938年に卒業した。マイアミで本格的にフォトジャーナリズムに興味を持ち始めた。大学新聞の写真編集者兼カメラマンとして働いた。1996年にアーカイブを寄贈されたテキサス大学オースティン校によれば、ダンカンは1930年代からフリーランスとして仕事を始め、北米や南米を旅していたという。海兵隊員として第二次世界大戦に従軍した後、ライフ誌の撮影に携わりながら、朝鮮戦争中の任務を皮切りに、兵士を作品の中心に据えた。この経験は、その後の彼のキャリアに大きな影響を与えることになる。

Turkish General Kara Avni Mizvak
Turkish General Kara Avni Mizvak, Russian border, 1948

ダンカンは1951年の作品集 "This is War"(これが戦争だ)の序文に 「彼らの物語を知るためには、小説の文章を1ページ読むのと同じように、写真の各ページを注意深く読まなければならない」と 書いている。ダンカンがニッコールレンズと出会ったのは1950年6月のことである。当時、日本美術の撮影に勤しんでいたダンカンは契約カメラマンとして、タイム・ライフ誌の東京支社にいた。のちに彼のアシスタントになる写真家三木淳は、日本人唯一の同誌カメラマンとして同じく東京・京橋にある同社の東京支社内にいた。三木が現像した肖像写真を見たダンカンの表情が急変した。自身の肖像写真がシャープに描かれていたのである。

Nightmare Alley
Marines of 1st Division marching down canyon known as Nightmare Alley, 1950

ダンカンはルーペを持ち出してその写真をチェックし「日本製ゾナーレンズ」のもつ描写のシャープさを見抜いた。そして「このレンズを作っている工場に行きたい」と三木に伝えたという。その直後、朝鮮戦争が勃発。2台のライカに Nikkor SC 5.0cm F1.5 と Nikkor Q 13.5cm F4 をつけたダンカンは朝鮮戦線で、一貫してニッコールレンズを使用し、多くの写真を撮影した。これをきっかけとしてニッコールレンズおよびニコンSなどの日本製カメラがアメリカの写真家たちを席巻したのである。ダンカンはパブロ・ピカソとも親しくなり、彼の自宅やアトリエでリラックスしたポーズや遊び心のあるポーズをとっているスペイン人画家を撮影した。

Marine Captain Francis Fenton in despair
Marine Captain Francis Fenton in despair by North Korean counter-attack, 1950

彼は1956年にピカソと出会い、1973年にピカソが亡くなるまで、そして未亡人のジャクリーヌや娘のカトリーヌとも親交があった」とアンドラルは語っている。しかし、彼を一躍有名にしたのは戦争写真であり、その生々しいポートレートは韓国とベトナムの兵士たちの過酷な運命を捉えていた。「夜明けだった。とても寒く、マイナス30度くらいで、お腹が空いていて、もう話すこともできなかった」「こんな風に泣いてごめんなさい」と2008年にフランス南部、オクシタニー地域圏ピレネー=オリアンタル県のペルピニャンで開催された "Visa Pour L'Image"(イメージのためのビザ)フェスティバルでの作品展で語った。

Jacqueline and Picasso
Jacqueline and Picasso on 3rd floor of La Californie, Cannes, 1959

ペルピニャンでは若いジャーナリストたちに「あなたたちにはカメラがある。 政治的な武器なんだから、使わなければならない」とこうアドバイスした。その後、ダンカンは特にジョージ・W・ブッシュ大統領時代には率直な反戦論者となった。2018年6月7日、ダンカンは102歳の生涯を閉じた。1960年代からフレンチ・リビエラに住んでいたダンカンは、カンヌ近郊のカステラスに家を構えていた。フランス南部の地中海沿いの都市、アンティーブにあるピカソ美術館のジャン=ルイ・アンドラル館長は「肺炎の合併症の後、親しい人々に囲まれて」南部の町グラースの病院で亡くなったと語った。

university_bk  David Douglas Duncan (1916–2018) Papers and Photography | The Harry Ransom Center

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